活動報告

2023.03.23
◆ 第29回 研究会報告

2023年3月23日(木)18:00-20:00 Zoom開催
 
第29回となる3月研究会では「ソネット3番」を読みました。
 
 Era il giorno ch’al sol si scoloraro
per la pietà del suo factore i rai,
quando i’ fui preso, et non me ne guardai,
ché i be’ vostr’occhi, donna, mi legaro.
 
 Tempo non mi parea da far riparo
contra colpi d’Amor: però m’andai
secur, senza sospetto; onde i miei guai
 
 nel commune dolor s’incominciaro.
Trovommi Amor del tutto disarmato
et aperta la via per gli occhi al core,
che di lagrime son fatti uscio et varco:
 
 però, al mio parer, non li fu honore
ferir me de saetta in quello stato,
a voi armata non mostrar pur l’arco.
 
まずはゲストの飯嶌さんが詩句を音読し、意味を確認した後、概要を説明してくれました。司会を担当してくれた原さんが「気になるポイント」をリストアップし、文学が専門の古田さん、辻さんを中心にメンバー全員で読み込んで行きます。
冒頭の文で使われている動詞に注目(era / si scoloraro / fui preso/ non me ne guardai / legaro)し、半過去と遠過去の違いによって表現されているものを確認しました。3行目「et」も並列なのか帰結なのかを正解を瞬時に答えることよりも、それぞれの可能性やその場合の解釈の違いについて一歩一歩進んでゆきます。そして、2連目の「Tempo」が無冠詞である点、「parea」が古いイタリア語の「姿を見せる」なのか、現代での使い方「(実態とは異なる・外見から)…のように見える」なのかについても、さらに丁寧に確認して行きます。版によっては「amor / Amor」と小文字・大文字のいずれもが使用されていますが、「愛神」とした場合に「il giorno 受難の日」の文脈で他の神が出てくる違和感も──トロヴァトーレ経由でキリスト教化された愛(神)と見る?ことで──説明できるかもしれません。
2連目を音読してみると、ダンテ「地獄篇・第五歌」パオロとフランチェスカのエピソードが想起されます(例えば、senza sospetto や i miei guai)。また、「comune 共通の」とは誰にとって・どのように共通するのか。もちろんキリストの死を悼むなのですが、単純にそれでOKとして良いのか、非常にゆっくりですが即答ではなく、じっくり頭の中で、声に出して反芻する時間の大切さも感じられる研究会でした。特に、オペラ台本研究会として音楽へと理解を深めて行く中で、音の広がり・響き、沈黙・静寂といったものが重要であるのと通ずるところがあると思います。
句読点についても「,」に加えて「:」や「;」の使用・不使用問題についてもヴァチカン写本で用いられているかどうかといった文献学的な見地からいえばサヴォーカ編纂のテキストを使うのが「正しい」一方で、コンティーニの解釈を反映した句読点があることで読みの助けになる点、その解釈を受容してきた歴史、(他のヨーロッパ語と比べてイタリア語では)古い作品も読めてしまう危険性についても話し合いました。この点も音楽(演奏)における「オーセンティシティ 真正であること(本物?)」問題にも通ずる点があると感じました。
じっくり考えることで作品中に二度現れる「però」が、古い用法「perciò」と現代の用法の両方で使われている発見にも「驚く」ことができるのではないでしょうか。再び、話は1連目に戻りますが、「donna」の訳語を導き出す際に、「女性」や「貴婦人」を充てるわけですが、その両方の瞳で私は縛り付けた支配者であることから後者を暫定的に選択する(すぐに結論を出そうとしない)点も訳文を作る際には必要なプロセスでしょう。訳文では当然ながら訳語を選択しなければなりません。例えば「i rai」は「(光線というよりは)視線」、「core」は「(心というよりは)心臓」が適切だとすれば、それはどうしてなのかについても吟味して行きます。
この他にもペトラルカの用いたレトリックや歴史文法についてもひとつひとつ読み解くことで、古いイタリア語を読む力が少しづつついてくることを若い歌い手(大学院修士課程を終え、勉強中)さんも感じてくれたと思います。教育機関で指導しているとどうしても結果やキャリアアップに直結するか否かという基準で、学生が学修や研究への取り組みを判断する傾向にあると感じることが多々あります。もちろん日々の生活が成り立ってこその学問でしょうが、「古いイタリア語が読める文献を教えてください(おそらくマニュアルやハンドブックをイメージしている)」といった悲しい質問に行き着かないように信念を持って根気強く指導に当たります。まさに、8行目の「guai」──現代語の「ただじゃおかないぞ、大変なことになるぞ」ではなく──(声を伴って出てくる悲しみ・嘆き)とならないように。

森田学

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