詩句のイタリア語

イタリア語のオペラや歌曲の歌詞はほぼ韻文で書かれています。響きやリズムによって生み出されたことばの世界では、ことばの意味を理解する(日本語に訳せる)だけでは十分とは言えません。なぜそのような語順になっているのか、その表現や単語、形式をなぜ選んだのか、などについても考えてみたいものです。対訳を読んでみたけれどうまく理解できない場合、その理解を深めるための手がかりも紹介していければと考えています。

2021.02.20
台本を<読む>ことについて――文法の先に広がる世界を見るために――

 ヴェルディ後期の傑作《ドン・カルロ》に、「世のむなしさを知る神」というタイトルで知られる、ソプラノのアリアがあります。このアリアを歌うエリザベッタは、政略結婚により元々許婚であったカルロの父親、フィリッポ2世の王妃となりました。フォンテーヌブローでの愛するカルロとの思い出に耽りながら、先帝の墓前で現在の辛い心の内を吐露し、平安を求めて祈る、美しいアリアです。
 歌詞の最初は、Tu che le vanità conoscesti del mondo e godi nell’avel il riposo profondo…。日本語に直訳すると、「世界の虚しさを知った、そして墓の中で深い休息を享受しているあなた」といった感じです。ここで呼びかけられる“tu(あなた)”とは誰のことでしょうか。もちろん、それは墓に眠っている先帝、つまり神聖ローマ帝国カール5世です。ですから、先に挙げた日本語のタイトル「世のむなしさを知る神」は、じつは誤訳に基づくものなのです。
 以前、《ドン・カルロ》に字幕をつける仕事をした時、 “tu”が誰か分かるように、ここでの呼びかけを「先帝よ」としました。ところが、制作側からクレームがきて、「このアリアには定訳があるから、それに倣ってください」と。当然ながら、その要求を私は拒みましたが、結局、「神よ」でも「先帝よ」でもなく、「あなたよ」とすることで妥協しました(原文通りなので問題ないのですが、字幕では分かりやすさも重要です)。
 翻訳という作業には、必ず誤訳がつきものです。訳者も人間ですから、勘違いやうっかりを100%避けることは難しいでしょう。ですから、最初に「神よ」と訳した人を責めるつもりは毛頭ありません。ただ、後に続く者は、誤訳に気付いた時点で随時改めていかねばならないのです。
 そもそもこの誤訳はどうして生じたのでしょうか? 祈りの場面だからでしょうか、それとも、歌詞の中に「神Dio」や「Signor主」という語が出てくるからでしょうか? ちなみに「神」に対して親称の“tu”が使われるのは、一般的なことです。
 翻訳はいつでも前後の文脈を踏まえて行なうべきですが、この歌詞の“tu”が誰であるかを特定するに際し、「神」でないということは、前後の文脈を考慮しなくとも、明らかに見て取れます。「世の虚しさを知った」のconoscestiは、動詞conoscereの遠過去ですね。とすれば、この世のすべてを司る永遠不滅の神が、今さら「知った」のは変ですし、そもそも、自分の創造した世界を神が「虚しい」と捉えているはずもありません。さらに、「墓の中で深い休息[=穏やかな死の眠り]を享受している」(動詞は現在形)のは、今エリザベッタの目の前にある墓の主、カール5世でなければ辻褄が合いませんね。
 もうひとつ、別のアリアの話をしましょう。プッチーニオペラ《蝶々夫人》の「ある晴れた日に」です。皆さんご存知のことと思います。冒頭の歌詞「ある晴れた日にUn bel dì」は、直訳的には「ある良き日に」であって、bel(lo)という形容詞から、「晴れ」ていると断定的に捉えることは、とりあえず避けるべきでしょう。そのことを、故戸口幸策先生が折に触れておっしゃっていました。
 では、「晴れた日」というのは誤訳でしょうか? それを判断するためには、やはり前後の文脈をきちんと踏まえる必要があります。まず、ここでのbel(lo)=「良い・素晴らしい」は、“Fa bel tempo(良い天気だ)”と言う時のbelではなく、ピンカートンが戻ってくることを期待し胸を膨らませる蝶々夫人の心情が反映されている形容詞です。ゆえに、彼が戻ってくる日は「素晴らしい日」であり、天気が「晴れ」であるかどうかには関係がないのです。
 ですが、後の歌詞を見ていくと、水平線の彼方にピンカートンの乗った(蒸気)船の煙条が見えるでしょうと言っているので、たしかに空は「晴れ」ている可能性が高い。それに、日本語では「晴々とした心」といった言い回しのように、明るい気持ちを「晴れ」という天気の比喩で表現することがあります。ですから、アリアのタイトルとして「ある晴れた日に」とするのは、誤訳とまでは言い切れない。むしろ、少なくとも翻訳(あるいは字幕)としては、印象に残りやすい、なかなかの名訳だと言って良いかもしれません。とはいえ、belという形容詞からは天気が「晴れ」だと読み取れないない以上(曇っていても煙はたぶん見えるでしょうから)、それはあくまでも多くの鑑賞者がイメージするであろうひとつの解釈ということになるのです。
 当たり前の話ですが、オペラにはまず韻文で書かれた台本があります。台本は文学テクストとして、緻密に読まれねばなりません。台本を読む作業には、語学力や文脈把握だけでなく、詩の韻律だとか、なぜその語彙が選択されたのか、それらがどのように音楽に結びついているかといった要素、あるいは作品の時代背景や作者の知的素養などの、非常に難しい(けれども興味深い)問題が数多く伴ないます。そうした問題の一つ一つをじっくり丁寧に読み解いていくことで、台本作者と作曲者が作品やフレーズに込めた意図・表現したかったものが、より良く見えてくるはずです。上に挙げた2つアリアの読解は、とても初歩的な例ですが、そういう作業の積み重ねによって、オペラを観る楽しみが、もっと大きなものになるでしょう。

古田耕史

Archivio